初めての二階席。上から見下ろすのはちょっと違和感があるが、傾斜が急なので前の人の頭が気にならないのは良かった。前回の一階席では、前にでかい男性が座っちゃって、見にくくてしょうがなかったんだよな。
<立川春太:子ほめ>
前回からちっとも上達していない。と言っても2ヶ月じゃ無理か。この人がゆくゆくは上手くなるとして、どういうプロセスを経て上手くなっていくんだろう。10年、15年聴き続けていけば分かるのかもしれないけど、そんな気もないしな。
マクラは関東学院大ラグビー部の大麻事件。むかし談志も洒落で大麻草を植えてたことがあるんだけど、弟子が大掃除のときに全部抜いちゃったってな話をごく軽くやって噺へすぐに入った。
トリの「芝浜」に合わせて財布を拾う噺にしたのだろう。財布を届けた左官と届けられた大工、二人の江戸っ子のやり取りがいいね。「糞ったれ大家」と罵られた大家が「糞をたれない大家がどこにいる」と返すのも笑える。「多かあ(大岡)食わねえ、たったいちぜん(越前)」とい地口落ちもくだらなくていい。
仲入り
<立川談春:芝浜>
マクラは守屋前防衛事務次官の収賄事件。あの人だって最初からああだった訳じゃなくて、色々あってああなっちゃったんだから、と守屋の肩を持っていた。
どうして最近の落語家ってマクラで時事問題ばかり取り上げるんだろう(もしくは他の落語家の話)。観客がそれを求めてるのかなあ。私だったら、時事問題とは全く関係のない小粋なマクラを振ってもらって、マクラから本編へシームレスに入っていってもらうのが一番いいんだけどな。
おそらく観客のほぼ全員が「芝浜」の筋もサゲも知っているだろう。それでいてこれだけ聴きに来る。不思議だよなあ落語って。もちろん落語家によって微妙に内容が変わるから、その差異を楽しむっていうのもあるだろうけど。それでも、完全に噺の内容を知っているのに何度も何度も聴きたくなるというのは、落語の奥深さなんだろうな。まあ、あとは「芝浜」は年末の風物詩みたいなところもあるんだろう(第九みたいにね)。
私の落語の教科書は古今亭志ん朝の『志ん朝の落語』(ちくま文庫全6巻)だが、この中の志ん朝の芝浜では主人公の魚屋が財布を拾う場面はやっていない。談春はそこをやった。やるほうが主流らしいが、やらないほうが「夢だったのか」と納得しやすい面はある。ただ談春の、魚屋が財布に気付く前、浜で明け切らぬ空を見ながら煙管を吸う場面が最高に良かったんだよな。今回のタイトル「東雲」はここから来ているし、この場面は是非やりたかったんだろう。
私は芝浜のサゲが落語のサゲの中で一番好きだが、このサゲの言い方もちょっと変わっていた(といっても私の知る限りだが)。「また夢になっちゃうといけないから」という最後のセリフは、言いながら途中でお辞儀の動作に入るものだと思っていたのだが、談春は面を上げたままこのセリフを言い切って、それからお辞儀した。何だか新鮮だった。
最後は談春の音頭で三本締め。芝浜聴いて三本締めなんかしちゃったら、もう今年も終わりって感じだが、実際にはまだ20日以上残ってるんだよなw。