チェルフィッチュ 公開リハーサル&トークセッション

というわけで、チェルフィッチュの最新作『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の公開リハーサル&トークセッションに行ってきた。
キクヤから急ぎ足で急な坂を上っていくと、前を歩いていた男女のうちの男性が岡田利規氏だった。そして、建物の外で煙草を吸っていたのが(たぶん)、佐々木敦氏だった。
受付で名前と住所を書いて参加費を払い、今回の稽古用のテキスト(A4 1枚)をもらう。その際、テキストは帰りに返してくれと言われた。


こぢんまりとした長方形の部屋の後ろ3分の1くらいに椅子が並べられている。私は3列目の席に座った。俳優たちは部屋の後ろの方にたむろしていた。渡されたテキストを読むと、みづきちゃんという人が沢田さんの家に行く途中でワインとチーズを買って、今それが入った紙袋を手に持って電車に乗っている、というようなことが書かれていた。
19時過ぎに公開リハーサルスタート。松村翔子、安藤真理、青柳いづみの3氏(たぶん)が前に出てきた。3人ともなんかもじもじしていてなかなか芝居が始まらない。そうこうするうちに3人のうちの誰か(誰だか忘れた)が「みづきちゃんは、ワインが一本とチーズが2種類入った紙袋を持っています」というようなナレーション部分を語り始めた。そうすると別の一人が腕をあげたり、髪の毛をいじり始めたりする。どうやらみづきちゃんを演じているらしい。テキストの4分の1くらいをやったところで大体ストップがかかり、演出家(岡田利規)が所見を述べる。これを何度か繰り返すのだが、やるたびにナレーションを語る人とみづきちゃんを演じる人が変わっていく。最初は何がしたいのかよく分からなかったのだが、何回か繰り返されるうちにようやく分かってきた。誰が何をやるのかが決まっていないのだ。3人の呼吸の中で、役割が決まっていく。
こういうのは初めて見たので、非常に興味深かった。細かい演出部分に関しては1つだけ。誰かがみづきちゃんを演じ始めてからナレーション部分を語るのではなくて、いきなりナレーション部分を語り出して、残りの2人にみづきちゃん役を押しつけるっていうのもありと言えばありと言っていたのが面白かった。


20時半近くでリハーサルは終了。休憩を挟んで岡田氏と佐々木氏の対談がスタートした。途中で佐々木氏が私も疑問に思っていたことを訊いてくれた。『わたしたちは無傷な別人であるのか?』は全編にわたってこんな感じなのかと。すると、岡田氏は違うところもあるけれども大体はこういう感じになると答えていた。これによって、ようやく『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の紹介文に書かれていた下記の文章の意味が見えてきた。

今回は、上演のフォームをできるだけ固定しないまま、最後までいきたい。上演とは、そもそも毎晩異なるものだけれど、本来あらゆる上演に当てはまるはずのその真実は、得てして上演を行うこちら側みずからが、おざなりにしてしまいがちなことでもある。そうではなく、そのことをむしろ露わにしてしまえたらいいのだけど。

この対談で興味深かったのは、「現代の若者を象徴するような日本語の台詞を使う作風を進化させ」つつある岡田氏が、そこを突き詰めていくと結局はドキュメンタリーのような演劇になってしまう。なので、その方向性は違うと感じた、というようなことを言っていたところだ。これからは俳優の身体に言葉を通過させることによる表現よりも、言葉を観客に投げかけて、その言葉を受け取った観客に舞台上の俳優が具象する演技を感じ取ってもらいたい、というようなことを言っていた(と思う)。要するに、紙袋を持っているということをパントマイムのように演じるのではなく、髪の毛を引っ張ったり、洋服の一部を引っ張ったりするのだけれども、それを我々観客が「ああ、紙袋を持って電車に乗っているのだな」と感じることができるかどうかということになる。


対談は21時半過ぎに終了。最後の方はちょっとしちめんどくさい話になっていて、前に座っていた人は寝てたね。
公開リハーサルを見学するというのは非常に面白い体験だった。これによって何をやりたいのかが見えてきて、本公演が楽しみになってきた。「今回は、上演のフォームをできるだけ固定しないまま、最後までいきたい」とあるので、本当は何回か観に行けるといいんだろうね。複数回観ると、テキストは同じなのに、まったく違う芝居に見えるかもしれない。今のところ一度しか行かない予定だけど、ちょっと検討してみよう。