エンジョイ(作・演出:岡田利規)新国立劇場

三十歳を過ぎて新宿の漫画喫茶で働くフリーターの男子三人。その一人が同じバイトの女子大生に恋をした・・。「不安定な現状を焦燥しろ」とか「抜け出す方途を探し出せ」といった勧告の存在を、彼らはもちろん知っている。そして、可能性の与えられていない未来のことも。この社会という条件下で、彼らは生を楽しめるのか? その「楽しさ」の矮小さを卑屈に感じないことが難しいとしても、「楽しむ」ために焦燥を見ないことにするのは消極的な主張なのか・・?

作・演出:岡田利規
美術: 伊藤雅子
照明: 大平智己
音響: 福澤裕之
衣裳: koco
舞台監督: 米倉幸雄
キャスト:岩本えり、下西啓正、田中寿直、南波典子、松村翔子、村上聡一、山縣太一、山崎ルキノ、山中隆次郎

通常言うところの舞台の前に水の入っていないプールのような空間がある。但し、一様に深いのではなく、前の方はフラットで奥の方に行くに従って深くなっている。つまり緩やかなスロープになっている。一番奥の一番深いところで50センチくらいか。そこが2段の階段になっていて、そこを登ると通常の舞台となる。但し、芝居のほとんどは舞台上ではなくそのプールで行われる。舞台上には両サイドに衝立のような塀があり、中央に天井まで届くような大きなスクリーンがある。
そのプールを取り囲むように3方に客席がある。両サイドに3列、正面に10列ほど席があって、雛壇状になっている。私は左サイドの3列目つまり一番後ろの席だった。実はその他にZ席という二階席もあった。
基本的には『三月の5日間』と同じような感じだ。役者が出てきて、客に語りかけるように今の状況を説明する。今回はマイクがあって、このマイクで喋るときはナレーションのような感じになり、マイクなしで話すときが芝居に入ったときである(後の方になると段々ごちゃごちゃになるのだが)。
役者は相変わらずおかしな動きを伴いながら話をする。ただ、『三月の5日間』と今回と続けて観ると不思議なことに段々と慣れてくる。そもそも全く動かずに喋る人はいないから、むしろこのほうが正しいんじゃないのかという気がしてくる。『三月の5日間』で可愛いなと思った松村翔子は生で見るともっと可愛かった。「えー」とか言いながら照れる芝居が可愛いんだよな。だけどよく見るとアゴが長いということが判明してしまった。
家庭用のビデオカメラを駆使しているのも今回の特徴だ。出てきている役者が別の役者にカメラを向けて、それがスクリーンに映し出される。これがなかなか複次的で面白い効果を上げていた。
『三月の5日間』と今回の『エンジョイ』しか観ていないのだが、岡田利規の芝居ではAという人がAという人を演じることの方が稀なのだ。普通はAという人とBという人がいれば、Aという人がAを演じ、Bを演じるBという人と会話をするのだが、岡田利規の場合はAという人がBに対してCという人がこういうことをしていたよという風に語り始めるのだ。そしてそのうちAがCという人を演じ始めたりする。だから舞台上の役者たちはあまりお互いに目と目を合わせて喋らない。こういう手法も現代の若者たちを表しているようで非常に興味深い。
単純に観ていて面白かった。これほど鋭く今の若者たちの「生」を切り取れる人はそうそういないのではないだろうか。但し、『三月の5日間』や今回の『エンジョイ』で用いた手法は早晩飽きが来そうだ。岡田利規ユリイカ宮沢章夫特集に「スタイルを捨てること」という文章を寄せており、こう書いている。

・・しかしそうは言っても、今の僕には、僕の方法をばっさり捨ててしまう勇気は・・正直まだない。なのでさしあたっては、今のスタイルを、捨てるのではなく、それをひたすら展開させ続けて、現在のそれとは似ても似つかないところにまでたどりつかせてしまうという力技で、結果的に現在の方法から離れていく、そういうことができればいいんじゃないかというふうに、思うことにしている。

しばらくは岡田利規の芝居から目が離せそうにないな。

客席の年齢層は意外に高かった。特に正面席におじさんが多かった。演劇関係者なのだろうか。ちなみに私のトイメンつまり舞台を挟んで反対側の客席のちょうど同じ位置に黒い眼帯をした人が座っていた。あれは伊藤キム氏だったのではないだろうか。