わたしたちに許された特別な時間の終わり(岡田利規)★★★☆☆ 3/21読了

チェルフィッチュ」を主宰する岡田利規の初めての小説集である。戯曲を小説化した「三月の5日間」とオリジナル小説「わたしの場所の複数」の2編が収録されている。

チェルフィッチュ」の芝居といえば、何といってもあの役者の不思議な動きである。喋りながら、手や足を常に動かしているのだ。最初に見た時には奇異に感じたが、慣れると段々気にならなくなってくる。自分の身の回りの人たちを見ても、結構無為に手を動かしながら喋っていたりするものだ。小説ではこの動きを利用することができない。そこをどう考え、処理するのかが一つの見どころだった。たまたま今日(3月22日)の朝日の夕刊で岡田利規が取り上げられており、その点について彼はこう答えている。

「身体を使えないことでできることもいっぱいあった。現実の出来事と、主人公が頭の中で思っていることが、小説にすると何の違いもなくて、不思議で面白い」

西川美和の『ゆれる』は映画にかなり忠実な小説だったが、「三月の5日間」は芝居とは異なるものになっている。もちろん大筋では同じだが、物語を推進するための工夫がされており、省略されたエピソードもある。私は芝居を観ていたので、比較的すんなり物語に入り込めたが、芝居を観たことがない人が入り込めるかどうかは疑問だ。なにせ地の文も会話も同列にズルズルつながってるからね。普通に考えれば読みにくいことこの上ない。

もう一つの作品「わたしの場所の複数」は不思議な構成になっている。主人公の「わたし」はアパートの布団に寝転がっていて、何もしたくないからずーっとグズグズしている。そんな「わたし」の独白のような文章が連なっていくのだが、途中で、バイトの合間に飯田橋ベッカーズで仮眠している夫に視点が変わるのだ。あたかも村上春樹の『アフターダーク』のカメラアイのように。夫の動きを追っていたかと思うと、また「わたし」の描写に戻り、布団の中での身体の動きを克明に描写したりする。

正直言って最初に読んだときには付いていけなかった。だけど、パラパラと読み直していくうちに、こういうのもアリなのかもしれないと思い始めた。まさに「現実の出来事と、主人公が頭の中で思っていることが」同列に扱われているのだ。

新たな才能の出現には間違いないだろう。今後どういった小説なり戯曲なりを書いていってくれるのか非常に楽しみだ。

わたしたちに許された特別な時間の終わり
岡田 利規〔著〕
新潮社 (2007.2)
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