河岸忘日抄(堀江敏幸)★★★☆☆ 2/19読了

「ここではないどこかへ」というのはいつも文学作品の(エンターテイメント作品でも)モチーフとなってきた。しかし、世の中そう簡単に「ここではないどこかへ」行くことは出来ない。この本の主人公は、ひょんなことから、とある河岸に係留された船に暮らすことになる。船といっても、いっぱしのアパートなみの設備は整っており、暮らすのにそれほどの不自由はない。そして何より、「係留された船」に住んでいるということが「ここではないどこかへ」行くことが出来ない主人公の境遇を如実に現している。
物語的な展開はほとんどない。主人公の思念が綴られていくばかりで、私も途中で匙を投げそうになった。他の堀江作品のように、主人公の読んだ本のあらすじが披露され、それがどんどん派生していくのだが、船の中にあったワイン樽からの連想でクロフツの『樽』が紹介されたところで、推理小説読みの私は嬉しくなってしまい、そのまま読み継ぐことが出来た。
料理の描写が多かったのも私の興味をつなぐ一役を担っていた。

手軽で単純に見える料理ほど奥は深い。オムレツは、その筆頭にあるもののひとつだ。ナイフを入れると汁がじわりと沁みだしてくる半熟タイプであれ、具を入れて固めに火を通すタイプであれ、納得のいく焼き加減にするためには、一、二分のあいだ、全神経をフライパンのうえに集中し、自分がこの世に生まれてきたのはオムレツを焼くためだ、世界はふたりのためにではなくオムレツのためにあると言い聞かせなければならない。

このくだり、特に「世界はふたりのためにではなく・・」のところは読んでいて思わずにやりとしてしまった。実際そうなんだよね。料理を失敗する人って、大概、他のことを一緒にやろうとして注意がおろそかになって火加減を誤るんだよな。
係留された船に住み、郵便配達夫にコーヒーを振る舞い、耳の遠い病気の大家の愚痴を聞きに行き、母国の知人とファクスのやりとりをし、時折訪れる謎の少女にクレープをご馳走する、このモラトリアム主人公の思念に付き合った一週間は、忙しい毎日にあって、なかなか得難いものがあった。

河岸忘日抄
河岸忘日抄堀江 敏幸

新潮社 2005-02-26
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