チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?」@STスポット

2008年3月に行われた「フリータイム」以来、約2年振りのチェルフィッチュ新作公演が開催決定! 横浜STスポットと横浜美術館にて約3週間にわたる初のロングラン公演を行います。是非ご期待ください。


チェルフィッチュ
「わたしたちは無傷な別人であるのか?」


作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 松村翔子 安藤真理 青柳いづみ 武田力 矢沢誠 佐々木幸子


二〇〇九年八月三十日日曜日や、その前日の土曜日の夜が、この新しい作品の舞台です。
たとえばわたしたちの時代の気分が不安に満ちたものであることに思いを馳せるとき、そうした不安を共有していない人たちもいるかもしれない(というか確実にいるんだけど)ということを、できるだけ絶えず心に留めておくこと。そして、わたしたちが感じる不安を共有していないのは、一体誰なのか? ということにも同じくらい思いを馳せてみる。たとえばあなただって、そうなのかもしれない。つまり、すべてのわたしたちがそうである可能性があるのだ。
今回は、上演のフォームをできるだけ固定しないまま、最後までいきたい。上演とは、そもそも毎晩異なるものだけれど、本来あらゆる上演に当てはまるはずのその真実は、得てして上演を行うこちら側みずからが、おざなりにしてしまいがちなことでもある。そうではなく、そのことをむしろ露わにしてしまえたらいいのだけど。
岡田利規

ちょっと遅れ気味に着いたんだけど、桟敷じゃなくて椅子に座れて良かった(といってもパイプ椅子だけど)。会社からすごく近いけど、STスポットでの観劇は初めて。狭いね。分かってたけど。
舞台装置は何もなし。奥に二箇所出入り口がある。だけど、実際には役者は客席の横を通って出入りすることが多かった。
芝居の内容は、ある一組の夫婦を通じて、「幸せ」とはなにかを問うものだった。チラシには岡田利規のこんな文章が載っていた。

舞台上でなされる行為それ自体というのは、演劇ではなくて、それは演劇のための条件にすぎません。そして演劇というのは、舞台上の行為を通して観客の中に生み出されるなにか、のことです。(中略)
このことをわたしは今回、これまでになく強く意識して、この「わたしたちは無傷な別人であるのか?」を作りました。このわたしの意図をイメージしてもらいやすいだろうと思って、わたしは今回、稽古場で、「受精」という単語をとてもたくさん使いました。先日、イギリス人アーティストを、本作の公開リハーサルと、その後のトーク・セッションのゲストにお招きした関係で、自分の考えを英語にする機会がありました。そのとき、通訳を務めてくれた方から舞台上の出来事を観客に知覚(perceive)してもらうことに留まらず、そこからシーンを心の中で想像(conceive)してもらいたいということだ、と説明するのはどうか? と示唆をもらいました。知覚することと、想像することが、英単語では対のようになっていることに、わたしは驚きました。そしてさらに驚いたのですが、conceiveというのは「受精する」という意味もあるのです。

舞台装置なしの芝居では観客の想像に委ねる部分が大きい。ある意味「落語」のようなものだ。ただ、落語(特に古典落語)の方が想像の領域が限定される気はする。今回のチェルフィッチュの芝居は観客によって受け取り方の幅がかなり広くなるだろう。
公開リハーサルのパートを楽しみにしてたんだけど、結構あっさり役割分担が決まっちゃってるようで、ちょっと拍子抜けした。あと、初めて見た武田力は、とてもいい味を出していた。彼が一番印象に残ったな。
相変わらず観終わった直後はあまり腑に落ちない。チェルフィッチュの問い掛けが私の中で結実するまでにはもう少し時間が掛かりそうだ。
超リアルな若者言葉で有名になった感のある『三月の5日間』だが、もう『三月の5日間』のチェルフィッチュではないんだなということが本作でよく分かった。
5月にはラフォーレミュージアム原宿で『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』も上演される。