帯には「当代きっての名訳者37人が勢揃い! 翻訳エッセイの決定版」とある。「当代きって」かどうかはともかくとして、若島正、池内紀、柴田元幸、青山南、高見浩・・など有名な翻訳者がずらりと並んでいるのは確かだ。但し、翻訳がうまいのとエッセイがうまいのとは別物だ。柴田元幸、青山南、鴻巣友季子、岸本佐知子なんかはさすがに読ませるけど、あんまりまじめに書かれちゃっても読むのが辛いんですけど、っていう人も何人かいたね。そんな中、アメリカでの暮らしで自閉症になってしまった10歳の娘との交流に翻訳が役に立ったという伊藤比呂美のエッセイは秀逸だった。ただの「翻訳よもやま話」ではなく、完全に一編のエッセイになっていた。
多和田葉子という作家のことを知ったのも大きな収穫だった。日本語とドイツ語で作品を書いている「越境者」である多和田葉子の視点は、普段われわれがなかなか持ち得ないものだ。多和田は「基本的には、あらゆる翻訳は「誤訳」であり、あらゆる読解は「誤読」なのかもしれない」と書いている。だから「<間違っている><正しい>という二極に分けて考えることはできない」と。そして、翻訳家に対してこうエールを送っている。
文学作品の翻訳では、どんなに努力しても欠落してしまう要素がたくさんあり、それでもがっかりしないで、辛抱強く、存在しないかもしれない言葉を探し続ける努力は大変なものでしょう。誉められることは少なく、批判はされやすい翻訳家という職業に敬意を感じます。
でもだからこそ、訳者はディフェンシヴにだけ訳すのではなく、オフェンシヴに仕事をしてほしいとも思います。「原作者の言語ではこういうことはできないけれど、わたしの言語ではこういうことができるんだぞ」とか、「作者は自分では気がついていなかったみたいだけれど、この作品にはこういう隠された面白さもあるんだよ」ということを積極的に探していく態度も翻訳家には必要な気がします。
オフェンシヴに翻訳するっていうのはいい言葉だよね。勇気づけられる翻訳家も多いのではないだろうか。