穂村弘と言えば、今までは脱力系エッセイを読むことが多かった(もちろん歌人だということは知ってますよ)。その穂村弘の短歌論ということで、どんなもんだろうと思っていたのだが、至極真っ当な短歌論だった。
第1章 短歌の感触
第2章 口語短歌の現在
第3章 <リアル>の構造
第4章 リアリティの変容
第5章 前衛短歌から現代短歌へ
第6章 短歌と<私>
第7章 歌人論
目次をざっと見ていくと書き下ろしのように見えるのだが、巻末で確かめると実際には色々な媒体に発表した原稿の寄せ集めなのである。「なお、本書のタイトルと全体の構成については、全て編集の須川善行さんにお任せして考えていただいた」とあるので、この須川さんという人が、様々な原稿を集めて再構成すれば、一冊の本になると見抜いたのだろう。
短歌にまつわる色々なことを論じているが、私が一番興味深かったのは、短歌の時代性の話、モードの変遷の話である。近代においては与謝野晶子や斎藤茂吉が短歌という詩型で『私』を獲得し、「私」を強靭なスタイルで作品化した。戦後においては「言葉のモノ化」が短歌に現れた。その代表的な歌人が塚本邦雄である。そして近年のモードは「『口語』の導入」である。俵万智の『サラダ記念日』の衝撃は記憶に新しい。そんな俵万智でも短歌という器に口語を盛っていた。ところがもっと最近の歌人は「棒立ちの歌」を詠むようになっているらしい。例えば、こんな歌だ。
たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう 今橋愛
昔の歌人たちには詠むべき「テーゼ」があった。そして、それに対抗する歌人たちには「アンチ・テーゼ」があった。完全なる戦後世代においては「テーゼ」もなければ「アンチ・テーゼ」もない。そんな今の時代について穂村弘はこう書いている。
その後、2000年代に入って、戦後の夢に根ざした言葉の耐用期限がいよいよ本格的に切れつつあるのを感じる。インターネットに代表されるメディアの変化とも関連して、修辞的な資産の放棄に近い印象の「棒立ちの歌」が量産される一方で、未来への期待と過去への郷愁をともに封じられた世代が「今」への違和感を煮詰めたところから立ち上げた作品が目につくようになった。
本書を読んで感じたのは「短歌とは時代を映す鏡なのだな」ということだ。そうであれば、「今の歌人」たちの歌をもっと読むべきかもしれない。そこにはきっと「今」という時代が詠み込まれているだろうから。
上の話とは全然関係ないんだけど、「なるほど短歌」という話で取り上げられていた歌を一首、自分のために引用しておく。
「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ 松村正直
この歌はとても気に入っている。
短歌の友人 | |
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