走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)★★★★☆ 10/14読了

村上春樹が「走ること」についての本を出すらしいという話はずいぶん前から色々なところで目にしてきた。折に触れては、そういえば例の本なかなか出ないなと思っていた。それがこうして無事に一冊の本として結実したことは、いちファンとして嬉しい限りである。

しかも、前書きや後書きにも書かれているように、これは単なる「走ること」にまつわるエッセイではない。「走ることについて書くことは、僕という人間について(ある程度)正直に書くことでもあった」というように村上春樹の一種の個人史(メモワール)にもなっているのだ。

2005年8月のハワイ州カウアイ島滞在から始まり、見かけ上は、2005年の11月に行われるニューヨーク・シティー・マラソンに出場するために日々どのようにトレーニングを積んできたかという日記のような体裁がとられている。一方で、いつから自分は走り始めたのかを振り返るとともに、いつから自分は小説を書き始めたのかを振り返ってもいる。村上ファンであればおなじみの話も多いが、それでも村上春樹本人がここまで自分のことを振り返った文章を書いているのは珍しいのではないだろうか(ずいぶん昔に出た「村上春樹ブック」というムックに<自作を語りつくしたロング・トーク決定版>というのがあるが、これは聞き書の体裁をとっている)。

「1に足腰、2に文体」を標榜しているだけあって、村上春樹においては走ることと書くことが密接につながりあっている。走ることによって得られた経験則が書くことに応用され、人生哲学にまで敷延されてゆくのだ。走ることそして書くことは、すなわち生きることでもあり、結果としてこの本には村上春樹がどのように生きてきたのか(そして今後生きていくつもりなのか)が書かれている。この「生き方指南書」のような本にはいくつもの素晴らしいフレーズがある。例えばこんな一節。

結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

私はこの文章にとても勇気づけられる。「文化的雪かき」のような仕事を日々コツコツこなしていく毎日だが、こういう文章を読むと何だか報われる気がする。自分のやっている(やってきた)ことは決して間違ってはいないんだと。
ランナーとしての村上春樹は必然的に年齢的な壁に突き当たる。具体的に言えば、フルマラソンのタイムが徐々に悪くなっていくのだ。しかし村上春樹は決して「老い」を否定的には捉えていない。この「老い」に対する考え方というか構え方も、中年以上の人たちにとって(私もそこに含まれる)有用な指針の一つになるだろう。

本書は一応書き下ろしであるが、ところどころに過去に発表した文章が挟み込まれている。また本書のタイトルは、もちろん、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』を下敷きにしている。カーヴァー夫人のテス・ギャラガーの許可を得ているそうだ。カーヴァーの全作品を翻訳している村上春樹ならではのタイトルと言えるだろう。

走ることについて語るときに僕の語ること
走ることについて語るときに僕の語ること村上 春樹

文藝春秋 2007-10-12
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