宮本輝全短篇 上(宮本輝)★★★★☆ 2/12読了

「泥の河」で太宰治文学賞、続いて「螢川」で芥川賞を受賞して以来、人間の生きるという命題を鮮やかな人物造形と細やかな情景描写で多くの読者を魅了し続ける小説の名手宮本輝。
幼年期と思春期の二つの視線で、二筋の川面に映る人の世の哀歓を詩情豊かに描き出す名作「泥の河」「螢川」のほか、「幻の光」「星々の悲しみ」「五千回の生死」「真夏の犬」「胸の香り」を収録。
さらに、本作発売時点で単行本未収録の最新作「スワートの男」までの全短編39編を上下巻にまとめました。
また、早逝の画家・有元利夫の版画を装画として使用。
接ぎ表紙の美装愛蔵本で、決定版宮本輝の世界。
上巻収録15編。

この内容の濃さはどうだろう。紙に文字が印刷されてそれが綴じられているという点では他の本となんら変わりはない。変わりはないのだが、重みが違う。この本には物質としての重量以上の重みがある。
冒頭の「泥の河」と「螢川」でまず圧倒される。両方とも長編をぎゅっと縮めたような凝縮感がある。正直読んでいてしんどくなる時もあるほどだったが、その後は一篇一篇がやや短くなり多少は気軽に読めるようになる。著者の公式サイトで略歴を確認したが、ほとんどが自伝と言ってもいい作品群である。失踪したまま行方の分からなくなった祖母、家を出て他の女と暮らしていた父、自殺を図った母、予備校時代に図書館に入り浸っていた自分、結核にかかった自分。この本に出てくる人物たちはみな著者もしくは著者の周りの人物をモデルにしているようである。
そんな中、上巻で私が一番好きな短編は「火」である。冒頭の掴みの巧みさ、回想シーンのリアルさ、そして印象深いラスト、どこを取っても一分の隙もない。あらすじはあえて書かない。是非読んでみて欲しい。これぞ職業作家の短編である。
著者は下巻の「刊行に寄せて」でこう書いている。

小説を書き始めた二十七歳のときから、過剰な文学的表現というものを嫌悪する傾向にあったので、「水だと思って飲んだら血だった」と感じさせるような小説を書きたいと願いつづけてきたが、その志向は長篇小説の組み立て方とは本質的な矛盾が生じてしまう。
長い小説は、読む人を最後のページまで誘う仕掛けが必須であり、そのための緩急、起伏、物語的要素などを抜きにしては成立しにくい。
しかし短篇は、それらすべてを取り除こうとも、あるいは取り除くことによって、その小説の芯だけを宙空に浮き上がらせる可能性を持つのだ。人生の断面の向こう側に潜むものを文章によって抽象化し、読者がそれを己々の心のなかで具象化したとき、水は血に変わるのだ。短篇小説の真の魅力、醍醐味はそこにある。

「人生の断面の向こう側に潜むものを文章によって抽象化し、読者がそれを己々の心のなかで具象化したとき、水は血に変わるのだ」
まさにそういった短篇がずらりと並んでいる。「水だと思って飲んだらやっぱり水だった」という小説が氾濫している昨今、短篇小説の真の醍醐味を味わえる本は貴重なのかもしれない。

宮本輝全短篇 上
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